アットホームな場所
サスケ工房では1日4時間の作業で、月80時間以上の目安で働くという条件になっていた。
私の場合は褥瘡の事情を考慮してもらい、朝10時から12時までは新居浜事業所に通所し、お昼以降の13時から15時までは在宅でエアマット付のベッド上で作業することを認めてもらっていた。
作業といってもいきなり実業務があるわけではなく、しばらくの間はCADの基本操作の訓練が中心で、三面図という設計図面の読み取りの基本について学ぶことが主な作業内容だった。
講義については白石社長が不定期に実施し、それ以外では各自が用意されたCADの練習教材をもとに自主学習を行い、わからない点についてはKさんにその都度質問をしていた。
ただ他の利用者への対応などで、Kさんに直接質問することができないときも当然あった。
そんなときは、私の隣で先に進んでいるMさんに勇気を振り絞って質問をぶつけてみた。
すると、MさんはゆっくりとCADを操作しながら、ひとつひとつ言葉を絞り出すように私に丁寧に教えてくれた。
最初のうちはなかなか聞き取ることが難しかったが、毎日そのようなやりとりをしていくうちに、徐々にMさんの言っていることがわかるようになってきた。
たまにMさんが無邪気に笑ったりするときも、最初は何か冗談を言ったのだろうと思いながらただ笑顔で合わせていたのだが、それはさすがに失礼だと思い、どうしてもわからないときはもう一度言ってもらうようにした。
するとMさんは嫌な顔をすることもなく、大きい声で繰り返してくれた。
それでなんとか聞き取れたときは、質問の内容がわかったことと合わせて二重の喜びがあった。
もうひとつ当時のことで思い出されることとしては、11時になると10分程ティータイムの時間があったことだ。
当時はほんとうにアットホームな雰囲気があった。
Hさんや女性の利用者の間ではいつも楽しい会話が繰り広げられていた。
私もたまにその会話に加わったり、NさんがMさんにちょっかいをかけている様子を見て楽しんだりしていた。
あるとき、AさんがHさんにサスケ工房のサスケの由来について質問したことがあった。
私もそのことについて確かに気になっていた。
「社長が子供の頃サスケという漫画が好きで、飼っていた犬の名前もサスケとつけていたらしい」
と笑いながらHさんが言った。
あまりにも素朴なエピソードに思わずみんな笑顔になった。
しかし実はこの「サスケ」という言葉にはもっと深い意味が隠されていた。
サンクス・スマイル・ケア
2013年10月に就労継続支援A型事業所としてサスケ工房がスタートしたのだが、実はそれに先駆けて同年1月に訪問介護などの介護事業が始まっていた。
その介護事業の会社名も株式会社サスケだった。
白石社長が介護事業を始めるきっかけは、父親が脳内出血で倒れ、その後入院中に施設の空きがなく400人待ちだと言われたということから端を発している。
新居浜の現状を憂い、だったら自分で介護事業をしようと思い立ち、株式会社サスケを設立した。
サスケというネーミングについては、確かにHさんから聞いたエピソードがベースとなっているが、その3文字には「サンクス・スマイル・ケア」という介護事業における理念が込められているものでもあったのだ。
そのことを初めて知ったときは感動した。
例え後付けのものだったとしても、福祉において大切だと思われる理念がごく自然に込められているところに、必然性すら感じてしまう凄さがあった。
そして、介護事業に次いで今度は障がい者のための施設としてサスケ工房が設立されたわけだが、私たち障がい者にとっても「サンクス・スマイル・ケア」は勤める場所において一番求めている部分でもあったのだ。
HさんもKさんも常に笑顔(スマイル)で私たち利用者に接してくれた。
また、何気ない会話のなかに相手への思いやり(ケア)も常に見え隠れしていた。
そしてそういった支援を受けることによって、私たち利用者は気がつくと感謝(サンクス)を感じ始めていた。
しかし利用者にはそれぞれの異なる事情があり、そういった一人一人に対して接していくことは並大抵のことではない。
一つ思い出される当時のエピソードがある。
ある朝いつものように通所すると、いつも元気で朗らかだった40代の女性利用者のKMさんが、入口のところでうずくまっていた。
「大丈夫ですか」と声をかけても、KMさんは顔をハンカチで覆ったまま顔を上げることはなかった。
その後作業開始の時間になっても、KMさんは頑としてそこから動かなかった。
HさんにKMさんのことを恐る恐る触れると意外な言葉が返ってきた。
「彼女は精神的に波があるので、今はそっとしておいてあげてください」
それまではKMさんがどのような障がいを抱えているのかわからなかったのだが、このときの状況によって彼女が精神の障がいを抱えているのだということを察した。
その後HさんがKMさんのそばに寄り添って長い時間、彼女に接していた場面が今でも脳裏に焼き付いているが、一般の会社とは異なる福祉における難しさをあらためて考えさせられた場面だった。
初めての給料を手にして
2月になって、新しくHMさんという車いすに乗った30代の男性が利用者として入ってきた。
私の左隣がMさんだったが、ちょうど反対側の右隣がHMさんの席となったので、お互いに挨拶をした。
聞けば建設現場での転落事故により、脳の後遺症が残っているということで右手にも少し麻痺があるとのことだった。
印象的だったのはこちらから話をすれば言葉を返してはくれるが、会話中一度も笑みを見せるようなことはなかったことだ。
どのように接していいか戸惑いながらも、1か月だけ先輩の利用者としてHMさんに基本操作を教えてあげていた。
そのうちお互いに打ち解けてはきたものの、相変わらず笑顔を見せることはなかった。
過去の営業の経験で、相手の表情から心のうちを読み取ることは得意な方ではあったが、さすがにHMさんに関してはわからない点が多かった。
しかし、そんなHMさんをなんとか笑わせることはできないだろうかと思っていた。
詳細は忘れたが、あるとき私が言ったジョークに対して、HMさんが初めてニヤリとした瞬間があった。
このときはほんとうに嬉しかった。
その後HMさんからも少しずつ私に話しかけてくれるようになったのだ。
MさんやHMさんと接することはある意味、自分自身の変な殻を破ることでもあった。
自分からどんどん心を開いていけば、相手も心を開いてくれるはずだ。
今思えば、Hさんがそれぞれの利用者に対してフランクに接している様子から、そのヒントを得たように思う。
1か月が過ぎると、図面のトレースは実際の鉄骨施工図で必要とされる具体的な図面のものに移行していった。
簡単な3階建ての建物をモチーフに、それぞれの平面図や立面図を描くことで、ここにきてやっと本来の設計に近い内容を学んでいる実感が湧いてきた。
ある日の朝の朝礼時に、Hさんから「今から皆さんに給料明細をお渡しします」と発表された。
もうそんなに時間が経ったのかという気持ちと、仕事というよりまだ勉強をしている段階だったので、ほんとうにいいのだろうかという気持ちになった。
しかし、Hさんから手渡された封筒を手にしたとき、何とも言えない嬉しさがこみあげてきた。
以前働いていたころに比べると、金額自体はかなり少ないものではあったが、手にした喜びという意味においては、今までに経験がないほど大きなものがあったのだ。
36歳の冬、先天性の脊髄動静脈奇形を発症。 リスクの高い手術に挑むが最終的に完全な 歩行困難となり、障がい者手帳2級を取得。当時関東に赴任していた会社を辞め、地元の愛媛新居浜に戻り、自暴自棄の日々を過ごす。
41歳の冬、奇跡的にサスケ工房設立を知り福祉サービス利用者として8年半、鉄骨図面チェックの仕事に従事する。 50歳で一念発起しサスケグループ社員となる。
これからの目標・夢
障がいで困っている人の就職のお役に立ち、一人でも多くの仲間を増やすこと。